『愛しき咎人』




「私に教えて下さった呪術を、覚えていますか?」



「呪術?」

 夏目の問い掛けに、泰純は眉根を寄せた。

 鷹寛が手配してくれた、夏目達の『隠れ家』。その和式の一室に、泰純と夏目は二人きりで向い合って正座していた。
 泰純は質問の意図が分からないという顔をしている。当然だろう、と夏目は内心苦笑した。彼が次代当主を育てる――という名目で――自分に教え込んだ呪術は数知れない。いきなり『呪術』とだけ言われたのでは、思い当たらないのも無理はなかった。

 しかし、彼は確かに覚えている筈なのだ。
 その呪術は、夏目の運命を揺るがしたきっかけであり――彼が夏目に吐いた、最も大きな『嘘』の一つなのだから。

「……目を、閉じて下さい」

 居住まいを正し、正面に座る泰純をまっすぐに見据えながら、厳かに告げる。泰純はまだ先刻の疑問の答えを得ていなかったが、義娘の言葉に従い、無言でゆっくりと瞼を閉じた。
 夏目が正座した状態から腰を上げ、泰純の前に膝立ちになって近付く。泰純は何も言わず義娘の行動を待っている。静かに閉じられた目は、彼の愛用するメタルフレームの眼鏡越しに見えていた。その眼鏡の、左目のレンズの下辺り――泰純の左頬に、夏目が右手の人差し指を乗せた。そのまま、そっと指を滑らせる。
 泰純は目を閉じたまま訝しむような表情を見せた。しかし、夏目の指が二度目の角を描いた時にその意味を理解したらしく、短く息を吐き、瞼を震わせた。

 ――五芒星。

 陰陽術における重要な呪印。その紋様を描き終えると夏目は指を離し、泰純の左目の下――今しがた五芒星を描いた辺りに、そっと口付けた。その感触に、泰純がぴくりと肩を動かす。
 夏目が身を離すと、それを察したように泰純が目を開いた。日頃感情の読み取り難い表情をしている彼は、未知で不可解な出来事に遭遇した幼い少年のような、不安げな表情を浮かべていた。
 そんな義父の顔を見て、夏目は自分の中に余裕が生まれるのを感じた。『大人の女』になったような気分で背筋を伸ばし、悠然と泰純を見詰め返す。

「これであなたは、私のものです」

 そう告げた瞬間、泰純が目を見開き、息を呑んで……そしてそのまま、義娘の言葉を噛みしめるように瞼を閉じ、ゆっくりと頷いた。
 それがかつて自身の息子に向かって告げられた言葉であることを、泰純は知らないだろう。しかし、言葉の意味を正しく理解したであろう義父の反応に、夏目は満足して微笑んだ。
 再び、泰純の前に進み出る。改めて見ると、彼は同年代の男性と比べて少し痩せ型のようだった。それでも、夏目にとっては充分に大きい、大人の男の身体。その身体を、夏目は目一杯両腕を広げて、そっと抱き締めた。

「……っ、夏目!?」

 泰純が驚いたように身動ぎし、狼狽を隠せない声を上げる。夏目はくすりと笑みをこぼしたが、構わず義父の首元に顔を埋めた。
 上品な香のような、大人の香りがする。年頃の娘は父親の体臭をひどく嫌いぞんざいな態度を取るそうだが、夏目は父親の匂いというものをこれまで殆ど意識した事がなかったのだと気が付いた。

 生まれて間もない夏目を、同じく赤ん坊だった自身の息子とすり替えた義父。周囲を欺き、義娘に『夜光の生まれ変わりの少年』を演じさせていた義父。唯一の肉親と偽りながら、義娘にずっと冷たく接してきた義父。
 彼の所業が罪深いものであるのは事実だろう。他人が聞けば、非道な行いだと断じるに違いない。

 ――けれど、それが何だと言うのだろう。

 夏目は愛しているのだ、この義父を。とても罪深くて、どうしようもなく不器用な義父を。
 実の父親なのにいつも何を考えているのか分からなくて、得体が知れないと思っていた。畏怖の念さえ抱いていた。そんな父の真実を知った時、衝撃を受けたのは確かだが、どこか吹っ切れる感覚もした。ようやっと、腑に落ちた。
 そして同時に、それまで知らなかった愛しさがこみ上げてきたのだ。自分は春虎の身代わりだったのかと夏目に問われ身を震わせる義父を――夏目に軽蔑され、嫌われる事を恐れている義父を、たまらなく愛しいと思う気持ちを抑えられなかった。

「私はお義父さんのこと、好きです」

 その囁きを聞いた瞬間、泰純は声を漏らしたが、それは殆ど言葉になっておらず、そもそも日本語の発音ですらなかった。初めて聞く義父の間抜けな声に笑いそうになるのを必死で堪え、至って真剣であるという顔を作りながら夏目は泰純の顔を見上げた。

「……お義父さんは?私のこと、どう思っているんですか?」
「そ、それは……」

 言われて泰純は口ごもった。冷静沈着で何事にも動じない男。そう思っていた義父が、目を泳がせ、頬を紅潮させ、冷や汗までかいている。思わず可愛い、と口をついて出そうになったが、本題から逸れてしまうに違いないので今は黙っておく事にした。
 泰純は夏目の顔をまともに見返す事が出来ず、視線を泳がせたまま黙り続けている。そんな泰純の様子を見て、夏目は眉尻を下げた。

「お義父さんは、私のことが嫌いなんですか」
「っ、そんな事はない!」

 反射的に夏目を振り返り否定する。焦りを含んだ義父の表情は真剣そのものだったが、次の瞬間、罠にかかったと悟ったようにはっとし、悔しさと気恥ずかしさの入り交じった顔で視線を逸らした。期待以上の素晴らしい反応に、夏目の胸が歓喜で満たされる。
 しかし、それだけでは許さなかった。

「そんな事はない、っていうのは?つまり、どういう事なんです?」
「な」

 予想外の追撃を受けた泰純はもろに面食らい、口を半開きにしたまま硬直した。気付けば耳まで真っ赤になっている。本当に、いつもの義父とは思えない。そんな義父の珍しい顔を眺めながら答えを待ったが、やはり泰純は何も言えずに固まったままだった。

「おとーさん?」

 片眉を上げ、期待を込めた楽しげな声で呼び掛ける。義娘の執拗な追及から逃れるように、泰純は思い切り顔を逸らした。が、代わりに夏目の背に腕を回し、半ばヤケクソのように力を込めて抱き返してきた。
 泰純は頬を紅潮させたまま、眉間に皺を寄せて口を真一文字に結んでいる。これで文句無いだろうと言いたげなその表情が可笑しくて、夏目はとうとう我慢しきれずに噴き出した。

「いいでしょう。許してあげます」

 まるで女王が家来に告げるかのような口ぶりに、泰純は物凄く何か言いたそうな顔をしたが、何せ不器用な義父なので、結局何も言葉には出来なかった。


 夏目はかつてない悦びに酔いしれた。父親をからかって遊ぶのは、こんなにも楽しい事だったのだ。


 それは新しい悪戯を覚えた幼い少女のような、甘美な愉悦だった。

夏コミ新刊泰夏本『私を縛る嘘』の宣伝用SSです(後付け)。書いてみたらなんとなく話が繋がってるっぽくなったのでそういう事にしました。
新刊1話目の後のお話という事になってます。よろしければ合わせてお読み下さい。→オフライン情報